2014年4月15日火曜日

所有できないことだけはわかっている。権利もそう、だれだってそう、車も家もいつかは手放す。身体もそう、声もやがては自分自信だって返さなくちゃならない。大学では、なぜ自分は自分なのかということで卒論を書こうとしているが、その疑問は生活に関するすべての時間において前提とされていることではある。答えが出ないこととして。
子供のときは所有欲の塊だった。自分のものを他人に触られるのでさえ修行だったこと。でもそれが自分の嫌いなところでもあった。
著作権とはいったいなんだろう。子供にしか通用しないルールみたいだ。あの子が遊び終わったら、そのおもちゃで遊びましょうね、みたいな。
曲を作る喜びをぼくは知っている。でも短い人生のうちにコアに触れる出会いなど数える程しかなく、どんな作品だって、なんの影響下にあるとかいくらでもあげられる。心理学を用いて音楽を分析することだって簡単だ。その結果を、データを、なにに用いようとしているのか。楽しいゲームではないことだけはなんとなくわかる。著作権侵害、著作権保護法、作品つくれば利権もつくれる、稼げなくとも、死ぬまではあなたの顔に名誉と呼ばれる泥を塗りたくる。
それは自分がいったい何者なのか見失った結果の弊害だった。
感覚しか頼ることできないけれど、喜びとかわくわくが人の実体の表皮で愛の心地良さと鋭さが核なのではないかとなんとなく感じている。
どの歌も意味なんてないさ君がききたい曲聴いてるならってスラックに言われてる

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